02/24/2011
失うこと・得ること
恋人を失うこと、旦那さんを失うこと、奥さんを失うこと、子供を失うこと、親を失うこと、友人を失うこと、尊厳を失うこと、権利を失うこと、笑顔を失うこと、ゆとりを失うこと、お金を失うこと、信頼を失うこと、友情を失うこと、かわいがっていたペットを失うこと、家を失うこと、仕事を失うこと、健康を失うこと、チャンスを失うこと、やる気を失うこと、だいじな物を失うこと、愛情を失うこと、臓器を失うこと、命を失うこと。
今の自分に、自分の人生に何が必要で何が不必要かを考える機会を得ること、友情を得ること、信頼を得ること、休む機会を得ること、上を向く機会を得ること、立ち止まる許可を得ること、ゆとりを得ること、家族を得ること、大切な物を得ること、大切な人を得ること、やる気を得ること、もう一度生きる機会を得ること、もう一度人生をやり直すチャンスを得ること、もう一度恋人とやり直す機会を得ること、新しい愛に飛び込むチャンスを得ること、友人を見直す機会を得ること、自分の人生を振り返る機会を得ること、お金を得ること、仕事を得ること、親に感謝する機会を得ること、親と和解する勇気を得ること、人と別れるきっかけを得ること、仲直りするきっかけを得ること、愛を得ること、命を得ること。
こんにちは、Setsuです。お元気にしていらっしゃいますか?
相変わらず寝たきりのせっちゃんです。すみません・・・。退院以来久々の外出。お医者さんに行ってきました。退院時に予約をさせられていたものです。結局明日から5日間毎日"Blood Bank (血液銀行!!??)”に行って鉄分の点滴を受けないといけないのだそうです。死ぬ思いで外に出て、3時間ぐらいベッドに縛り付けられて、どす黒いに近い赤い袋の点滴を受けて、そして家に帰ってぐったり。・・・そんなんで良くなるのだろうか・・・と思いながら、ただただ嫌だなあ・・・と憂鬱になっています。更に憂鬱なのは、輸血まで受けて痛い注射も受けて泣きながら検査や点滴を受けた結果ヘモグロビンの数値がひとつしかあがらなくてまだ普通の生活もできないこと、そして2週間以内に子宮を全摘出するかどうかの決断をしなくてはいけないということです。
私ね、まだ赤ちゃんがほしいでんす。おほほほ。子供達にも「弟がほしい」「私は妹がほしい!」と言われれば「オッケー!♪ 」とそりゃあ満面の笑顔で答えています。複数のお医者さんたちに「(ひとしきり言葉を失う・・・)あー・・・Setsu・・・そりゃあかなり難しい・・よ、ね?」と半分笑いながら言われました。「あんたに何がわかるんじゃい!」と言いたいところをぐっと我慢して、" I know, but miracle might happen!(わかってます。だけどね、奇跡がおこるかもしれないですよね!)”とかなり真剣に答えるのですが聞いているそぶりはぜんぜん見えない・・・。いいけどね。
「年齢」、という現実の壁がどおおおおおおおおんんと目の前に立ちふさがるわけです。そして、「世間の常識」や「健康状態」。いいじゃん、別に。ねえ。
ただ、子宮を摘出しない場合は今回はまだ切り取らず残っている筋腫、または新たな筋腫が大きくなって新たな出血を起こすリスクを抱える、と。これは、多くの子宮筋腫を診断された方が言われたことではないでしょうか。前回手術を取りやめたことが正しい選択だったかどうか迷った時がありました。出血が止まらなくて、元来生まれて持ってきた持病の貧血がどんどんひどくなっていったからです。でも、結果的に友人たちに心配や迷惑をかけてしまったけれど、あの時手術をしなかったからこそ、あの時にはまだなかったけれど今大きく突き出た筋腫を発見して一度の手術で済みそうなわけです。そして、全体医学からのナチュラルな治癒と対処法の西洋医学をいやというほど考えさせられました。もともと体の丈夫な人が病気になったのをきっかけにナチュラルな方法をゆっくりとってしっかり治していくのと、もともと欠損部分を持って生まれてきた人が同じ方法をとって同じ結果が出るとは限りません。幸運にも丈夫に生まれてきた人にはだいじょうぶでも、今回のように体質によっては命に関わることになりかねないわけです。Reading やHealingのセッションでも同じ病気を抱えた方々にそれぞれ違ったメッセージがきます。その人の体質、性格、病状によってアドバイスとなるメッセージが違ってくるのは当然のことです。
いいじゃんねえ!と笑顔で言えたとしても、やはり心の底では「やっぱり無理なのかなあ・・・」と打ちひしがれるわけです。そして、自分の恐怖や目をつぶっていた事実を知らされます。一方で、素晴らしい恵みに新たに気づかされることもあります。今回、動けなくなって、たくさんの友人たちが助けてくれました。これは一生涯私にずっと与えられてきた天の恵みです。家族のつながりが希薄な私の人生の中で、いつの時も、特に困った時に黙って手を差し伸べてくれる素晴らしい友人たちが必ず側にいてくれます。遠くからでも毎日のように声をかけてくれます。私の性格をよく知っている彼女彼らは、私に「〜が必要?」とか「〜してほしい?」「〜しようか?」と聞いてきません。必ず歯を食いしばってでも血を流していても動けなくても「だいじょうぶ!」って答えるのを知っているからです。なんとも情けない強情っぱりなわけです。なので、みんな、「これから行くから!」と言って家の掃除をしてくれたり(涙)、洗濯までしに来てくれたり(泣)、食事を作りにきてくれたり買ってきてくれたり(涙)、Healingをしてくれたり(泣)、祈ってくれたり(涙)、etc,etc,etc...もう、ありがたくてありがたくて(泣)。そしてセッションをされたクライアントさんたちからもたくさんのemailやTXTをいただいて、本当に感謝しています。
病気や事故で体の一部を失うこと、人との関係を失うこと、所有していた物を失うこと・・・すべて必ず原因があります。現世になければ、前世にあります。結局は意識的にだろうが無意識にだろうが、選択をしてきた自分自身が原因です。
そして、今回どれだけ大切な友人たちに恵まれているか、改めて見つめ理解し感謝する機会を得たわけです。癒しの力も目の当たりにします。自分の体の一部一部、持っている物のいとおしさ、大切さを知らされます。新たな発見は山のようにあります。そして、すべて学びとなります。すべてが結果的に学びの機会となるわけです。曇っていたガラスが磨かれ向こう側が見えるようになり、そして新たなドアも現れます。そこで新たな選択の機会を得る訳です。そのドアを開けるか、否か。
Today is yesterday’s pupil. ~Thomas Fuller
今日という日は、昨日の生徒である 〜トーマス・フラ—
しかし!人生は皮肉なので、ドアを迷って迷って開けて一歩一歩歩いてきたら、ふと気がつく日が来て、もうひとつのドアが隣にあったこと、ドアを通らなくてもすっと脇を通り抜けられたこと・・・なんてことを知る訳ですが、それはその時自分に必要なドアだったので、そのドアしか見えなかったわけです。「成長」が他の道の選択肢もあったことを後になって気づかせるだけです。だから、すべて完璧なのです。どんなにその時はそんなこと理解できなくてもです。それが真実です。失うことは得ることであり、嘆くことではありません。降ってわいた事故ではないわけです。必ず必